梅雨あける。父と友達と2・3冊の本と、1本の映画の話。

そんなに雨、降ったっけ?という間に梅雨明け。
ばたばたしている間に、6月が過ぎてしまった。

先月は小説を2冊読んだ。(ふだんあまり小説を読まない)
一冊目は、父に勧められた、三浦しおん『舟を編む』。

舟を編む

舟を編む

父は技術者だったからか
「若者が紆余曲折しながら困難を工夫で乗り越えて、一時は無理かと思われた目的を、ついに果たす」みたいな話(プロジェクトXとか、ガイアの夜明け的な)がすごく好きだ。
本やら映画やら、その手のものを見ては熱く語り、にこにこしながら勧めてくれる。
理系で、「数学がらみ」のお話もかなり好き。『博士の愛した数式』も『世にも美しい数学入門』も父に勧められて(というか手渡されて)読んだ。
(関係ないですが、父は「ビフォア・アフター」と「お宝鑑定団」も大好き。)

父は本を「買って読む」派だ。たいがいの人はそうなのだろうか?

私は、「借りて読む」派。
欲しい本が多すぎて金銭的にも保管場所的にもキリがないので、なるべく買わないことに決めている。読みたい本は図書館で借りるか、友人から回ってくるのを待つ。
買うのは、読んでみてどうしても手元に置きたいと思ったものか、時期を逃すと手に入れにくくなる雑誌。それ以外は、どうしても読みたいが図書館にもなく友達も買わない専門書の類。それらも、買うときはまず古本で探す。
印税で直接著者を応援できない罪滅ぼしに・・・というわけでもないけれど、読んでよいと思った本は、人に勧めまくる。

先月読んだもう一冊は、村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹氏の新刊は人気がありすぎて、友人の誰かから回ってくるにしてもだいたい一年以上は先なので、期待はせず、いつも待つとはなしに待っている。
が、今回はまったく予想しなかった早さで(しかも特に「貸して」と言ったわけでもない友人から)回ってきた。
彼女も人から借りて読んだ後、借り元である共通の友人に自らさっさと許可を取って、「次読むでしょ?」と持ってきてくれたのだった。とても嬉しかった。
そういえば彼女も専門書ばかりを買っていて、話題の新刊などはいつも誰かに借りているようだ。類は友を呼ぶ!
(そう言えば彼女は、つい先日まで「村上春樹、あんまり読んでないんだよね」と言って、晴雨堂にある村上春樹ストックを片っ端から借りて読んでいた。そうだった。)

とにかく、そんな風にして読むことになった2冊だった。

すこし前になるので、細かなことは忘れてしまったけれど、
どちらにも、自分が常々大切に思っていることを肯定されたように感じて、すごく勇気が湧いたのを覚えている。


「自分の内側に感じているものを丁寧に見つめ、丁寧に扱うのは、とても大切なことだ。」と常々思っている。その「自分の内側に感じている何か」が、たとえひどく“ネガティブ”な何かであってもだ。
自分の内側のあらゆるものに、「市民権を与える」こと。その存在を認め、そこに存在することを許可すること。
(それに抗おうとする自分がいたら、そんな自分にもまた、市民権を与える。そんな、自分に抵抗する自分もいていいのだ。どんな自分も、そこにいていいのだ。)

それが「いいか/悪いか」という評価や判断は、ずっと外側にあるもの、副次的なものに過ぎなくて、何よりもまず大切なのは、それがそこに存在すること、ただそれを認めることだと思っている。

それとただ一緒にいて、そのありようを感じること。そして、その「感じている感じ」を丁寧に言葉にすること。あるいは言葉でなくとも何らかの形で表現すること。
それが「存在を認める」ことになる。

以前も書いたかもしれないけれど、とりわけ何度も読み返している村上氏の『神の子どもたちはみな踊る』の中に、とても好きな一文がある。

 善也は眼鏡をはずしてケースに入れた。踊るのも悪くないな、と善也は思った。悪くない。目を閉じ、白い月の光を肌に感じながら、善也は一人で踊り始めた。深く息を吸い、息を吐いた。気分にあったうまい音楽を思いつけなかったので、風のそよぎと雲の流れにあわせて踊った。途中で、どこかから誰かに見られている気配があった。誰かの視野の中にある自分を、善也はありありと実感することができた。彼の身体が、肌が、骨がそれを感じとった。しかしそんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい。神の子どもたちはみな踊るのだ。
 彼は地面を踏み、優雅に腕をまわした。ひとつの動きが次の動きを呼び、さらに次の動きへと自律的につながっていった。身体がいくつもの図形を描いた。そこにはパターンがあり、ヴァリエーションがあり、即興性があった。リズムの裏側にリズムがあり、リズムの間に見えないリズムがあった。彼は要所要所で、それらの複雑な絡み合いを見渡すことができた、様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。彼はやがてその森を通り向けていくことになるだろう。でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ。

だってそれは自分自身の中にある森であり、自分自身をかたちづくっている森なのだ。自分自身が抱えている獣なのだ。

今、書いていて何度も心に浮かんできたので、もうひとつ唐突に書いてみるのだけれど、宮崎駿作品でもとりわけ好きなのが『千と千尋の神隠し』。(『ナウシカ』も好きだけど。)
あの映画にも、同じことが描かれているように思う。(あの映画の中には自分の個人的なテーマがすべてつまっているような気がしている。)

自分の感じていることを丁寧に扱うこと。それがたとえ、まわりに驚かれるような姿をしていても。
それらをごまかさずにまっすぐに扱うこと。それが、まわりの人たちが取る行動と違っていても。
千と千尋の神隠し』は、主人公の「千/千尋」が、10代前半のまっすぐさと勇気で、ひたすらそんな姿勢を貫いて進んでいく映画だと思っている。(そして「そのもののしかるべき名を、自分の内側から取り出して明らかにすること」がクライマックスの要になっている。)

・・・小説の話をしていたんだった。
とにかく『舟を編む』も『多崎つくる〜』も、私にとっては、
そこにあるものを丁寧に扱うこと。それが道を作り、たしかな歩みとなること。
そのことを改めて示す物語であるように思えた。