「何もしないことに全力をあげる」

来談者中心療法の創始者であるロジャーズの本を読んでいて、
以前河合隼雄先生がどこか本の中で、カウンセラーや心理療法家という仕事について、
「われわれの仕事は『何もしないことに全力をあげる』仕事なんです」と、
おっしゃっていたことを思い出した。

自分たち施術者の仕事もまた「何もしないことに全力をあげる」ことに通じている、
あるいは通じていなければならない、と思う。


ロジャーズ選集―カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選33論文〈上〉

ロジャーズ選集―カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選33論文〈上〉

ロジャーズによれば、カウンセリング場面とは
「カウンセラーが答えをもっているのではなく」
「クライエントが援助を得て問題に対する自分なりの解決を見いだせる場面を提供するもの」。

つまり、カウンセラーはクライエントの「問題の解決」を求められているのだけれども、
当のカウンセラーの仕事とは
「クライエントが援助を得て問題に対する自分なりの解決を見いだせる場面を提供するもの」
であって、カウンセラーが問題の解決をするのではないということだ。

つくづく、これはそのまま、私たちの仕事を指していると思う。
私たちは、日々患者さんの抱えている(多くは身体の)「問題の解決」を求められる。
けれども私たちの仕事もまた、患者さんが「援助を得て問題に対する自分(の身体)なりの解決を見いだせる場面を提供する」ものであって、
私たちはせいいっぱいの援助をするけれども、患者さんの身体を変えたり治したりするのは施術者ではなく、患者さんの身体それ自身だ。

そして・・・・・
「身体が変化するために必要なこと」は、実は驚くほど少ないのではないかと思うのだけれど、これはすこし説明が難しい。

「私があるがままの自分を受容するときに初めて私は変化する」
とロジャーズは書いている。

私たちはあるがままの自分を自分に十分に受容するまでは
変化することもできないし、現在の自分と違う方向にも動いていけない。
それができるときには、ほとんど気づかないうちに起こるように思われる。p.21

マッサージや鍼灸施術というのは、もちろん身体に対して何かを「する」作業なのだけれど、どちらかといえば何かを「する」よりも、まず身体に耳を傾け、その声を「徹底的に聴き取る」作業のほうが主であるような気がする。ただただ丁寧にそれをしようとするとき、すでに身体は変化しているように思う。
「身体のままにまかせる」(あるいはそのような場面を提供する)ということを、ひたすらにすることが、自分たちの仕事なのかもしれない。
決して手を抜くということではなくて、起こるべき変化が起こるために、
力を尽くして「何もしないことに全力を挙げる」。

私の経験から最も難しいことは、そのときそのかかわりのなかで、その人がどのように存在していても、そのままでその人を大切にすることである。
私がこうだと考えているままに、こうあって欲しいと私が望んでいるままに、またこうあるべきだと私が思っているままに、それに従って相手を大事にすることははるかに容易なことであるが―。p.55

今患者さんの身体に起こっていることを、すべてそのままに、十分に受け取っていくこと。
その「受け取り」が細かく繊細になるほど、より小さな力で必要な変化が起こっていく気がするのだけれど、
「何もしない」ことは、たしかにとても難しい。

ロジャーズ、かっこいいなあ。