「人の心の中のいい景色は、なぜか他の人に大きな力を与えるのだ」

スウィート・ヒアアフター

スウィート・ヒアアフター

これも最近読んだばなな氏の小説。
ほんとうにとてもすばらしい作品だった。
感想がうまくことばにできない。
けれど紹介せずにいられなくて、友人たちに会うたびに勧めている。

主人公は、交通事故での瀕死の状態から奇跡的に生還した女性。

そのできごとによって彼女はたしかにとてつもなく大切なものを亡くしたが、
その後の毎日を、一歩一歩ながら、存分に幸せに生きている(おそらくそれまで以上に)。
外的に見れば「不幸な人」、「不運な人生」と簡単に括ることができてしまう、とてつもなく大変な状況を生きている女性の話なのだけれど、最初から最後まで穏やかで、静かな安らかさを感じながら読んだ。
諸事情によって、「今を、ただ、今として生きる」ようになった人の話だ。

「奪われた」とか「足りない」ことより、「与えられている」「十分にある」「恵まれている」ことのほうを意識していたい。
いつのころからか、そういう生き方がしたい、そのようにありたいと思ってきた。
大事故にあったり大病をしなくても、そういう心持になれないものだろうかと。
(できると思いたい。)
この小説には、そんな自分の理想の大事な部分が含み込まれている。

全体的なすばらしさとは別に、印象深いところが二か所あった。

ひとつめは、主人公がある朝の寝起きに、隣に住む親しくなったばかりの友人が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、その友人(でもとても大切に思っている)の、ささやかながらあたたかい、他愛のない昔話を聴いているシーン。

 なににつながっているのかわからない、なににもつながっていない可能性も大だった。
 それでも、彼の頭の中のハッピーが今この瞬間の私をハッピーにした。
 私は(急死した恋人の子供を)妊娠していないことがわかってしょげていたあのときでさえ、赤ちゃんがいる新婚さんを見ても一度もねたましいとは思わなかった。
 どうしてかって?それは私ではないし、私の赤ちゃんではないからだ。
 そういうのをねたましいと思うのは、親からもらったねたみぐせがある人だと思う。自分がどんな境遇にいても幸せや赤ん坊はただただ無条件にまわりに力をくれるものだ。親が私をねたみぐせのある人間に洗脳しなかったことを、弱っている期間は特にありがたく思った。
 人の心の中のいい景色は、なぜか他の人に大きな力を与えるのだ。

ほんとうは、普段から何気なく身の回りにあるいろんなものが、自分の生きる力、前に進んでいく力になるものだと思う。
それらが「ただただ無条件にくれる力」を、そのままに受け取れる自分でさえいられれば。
自分自身の「ねたみぐせ」のようなものに邪魔をされなければ。

逆に、人のいい話を聞いて自然と自分もうれしくなったり力が湧いたりするというのも、ひとつの「思いぐせ」かもしれない。

何にせよそういう「思いぐせ」みたいなものが「親からもらう」ものとして書かれていることに、うなってしまう。確かにそうなのかもしれない。すべてとは言わないまでも、多くがそうなのだろう。
でも、親からもらっても、そのくせを(大変ではあるけれど)手放したり変えていくこともきっとできると思う。
環境が自分に与える影響は大きい。でも自分がそうしたいと思うなら、人はそれを克服できる。そう思わなければ、やっていられない。
ほんとうにそうしたいと思えば、人は変わることができる。
自分のあり方も自分で選べる、と信じる。

印象深かったもうひとつの箇所は、登場人物である姉弟(たぶん30代〜40代 主人公と同年代)によって語られる、二人の母親のこと。
その人はすでに亡くなっているが、姉弟二人ともが、「とてもよい母だった」と公言してはばからない。
(ちなみにその弟のほうが、上に出てきた「友人」である。)
姉は母について次のように語っている。

「母だってもちろん人間だから、いらいらしたり、怒ったりしましたよ。下痢もしたし生理にもなったし、恋にもおぼれたし。でも、なんていうか、いつでもいろんなことにありがとうって思ってる人だったんです。いつでもなんとなく楽しそうで、どこにいっても窓から外を見て、いきてるってたのしいねえ、ありがとう、って思うよね、って本気で言ってて。それが、なにか幸運とかお金とかを得たくってむりに感謝してる感じではなくって、きわめて自然にありがとうを身にまとってる感じ?うまく言えないですけど、そういう人だったんですよ。」

物語の中の描写からも、その母親はその時どきをおおらかに楽しんで、ささやかな日々を大切に生活していたのだろう、風通しの良い女性だったように思われる。

自分が印象的だと感じた二点ともが、親から子へといつの間にか伝わった「姿勢」みたいなものの話だと、書いていて気づいた。
結果的に人に大きな影響をもたらすのは、面と向かって何を言われて育ったかということよりも、日々の何気ない繰り返しのなかで近くにいる人からすこしずつ渡ってくる、何か「横顔」や「姿勢」のようなものなのかもしれない。

あとがきの全文は、次のとおり。

 2011年3月11日の震災は、被災地の人たちのみならず、東京に住む私の人生もずいぶんと変えてしまいました。
 とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。
 どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。
「ふざけるな、こんな薄っぺらい、陽気な調子の小説になにがわかる」と思う人がたくさんいるだろうなあ、とも思いました。
 しかし、多くのいろんな人に納得してもらうようなでっかいことではなく、私は、私の小説でなぜか救われる、なぜか大丈夫になる、そういう数少ない読者に向けて、小さくしっかりと書くしかできない、そう思いました。
 もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。
 読んでくださって、ありがとうございます。ただ、ありがたく思います。

思いを、受け取りました!と勝手ながら言いたい。
こちらこそ、ありがとうございました。
読んでほんとうにほんとうに、よかったです。


阪神・淡路大震災のあとに書かれた村上春樹氏の『神の子どもたちはみな踊る』という短編集がある。考えてみると、数ある彼の著作の中でもとりわけこの本ばかりを、もう数えきれないくらい読み返している。
読むと静かに力が湧いてくるのを感じる。そうやって幾度も力をもらっている。
きっとこの本も、そういう願いを込めて書かれているからなんだろう。
この本にも、お礼を言いたい。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る