満開、満開

このところ毎日通る大通り。いつもとは逆側の歩道を通ったら、満開の花水木に出会った。
咲き誇るとはこのことかと圧倒されて、思わず写真を撮る。
すごいなあ。

以前から気になっている木がある。
それはミモザ
黄色いポンポンがたくさんついたような花が、かわいい。
(ネットから画像をいただきました)

先日調べていたら、ミモザの成長は驚くほど早いことを知った。
花の咲いた後切り戻すのがポイントらしいのですが、翌年その切ったところから、わさっと花の房が広がっていくらしい。
地植えにすると、数年で大木になるとか!植えてみたい!!
(しかし身の回りに、地植えできる土地はなし。)
鉢でもそこそこ育てられそうなので、いつか挑戦したい。
たくさん花が咲いたら、晴雨堂に飾ろう。
みなさんにも、お分けします。
想像するだけで、幸せ。

春なので?

4月になりました。
新年度、いかがお過ごしでしょうか。

4月だからというわけでは全然ないのですが、朝近所の道を歩いていて、CDを拾ってしまいました。その一帯は不燃ごみの日だったらしい。
ゴミ置き場にかがんでの拾い物はさすがにすこし恥ずかしくて、CDが50枚くらいばさっと入れられた袋を、ささっと見て、ささっと拾ってその場を離れた。
女性ボーカルばかりを集めたjazzの3枚組のCD。


学生時代はよく道で物を拾った。
ちょっとした家具とか本とか、大きなスピーカーとか。
周りの友人たちも同様にいろいろなものを拾っては、家やサークルの部室に置いたり、誰かと交換したり、あげたりしていた。

当時は、何を拾って来るにも「ぜんぜん恥ずかしくない」ふりをしていた気がする。
今はそのころよりはだんぜん、ごまかしようもなく恥ずかしかった。

でも久し振りにこうして道端から物を拾って、何より、そんなことすべてが、懐かしい感じだった。

悪くないね、春。

その名はいささか過激ですが。

親しい友人に勧められた本を、図書館で借りた。
すっごーーーーーく面白い(まだ最初のちょっとしか読んでないけれど)
ですが、絶版になっているらしい。なぜだ!

インパクトのある題ですが、『臨済録』のなかの言葉からとられたもの。「仏に逢うては仏を殺せ」という有名な言葉らしい。

道流、爾如法に見解を得んと欲せば、但人惑を受くること莫れ。裏に向い外に向って、逢著すれば便ち殺せ、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず透脱自在なり。

だって。
ざっくりと言えば、「何ものにも縛られるな」「何にも囚われるな」ということか。
突き抜けろ、と。

しびれるぜ!

「人の心の中のいい景色は、なぜか他の人に大きな力を与えるのだ」

スウィート・ヒアアフター

スウィート・ヒアアフター

これも最近読んだばなな氏の小説。
ほんとうにとてもすばらしい作品だった。
感想がうまくことばにできない。
けれど紹介せずにいられなくて、友人たちに会うたびに勧めている。

主人公は、交通事故での瀕死の状態から奇跡的に生還した女性。

そのできごとによって彼女はたしかにとてつもなく大切なものを亡くしたが、
その後の毎日を、一歩一歩ながら、存分に幸せに生きている(おそらくそれまで以上に)。
外的に見れば「不幸な人」、「不運な人生」と簡単に括ることができてしまう、とてつもなく大変な状況を生きている女性の話なのだけれど、最初から最後まで穏やかで、静かな安らかさを感じながら読んだ。
諸事情によって、「今を、ただ、今として生きる」ようになった人の話だ。

「奪われた」とか「足りない」ことより、「与えられている」「十分にある」「恵まれている」ことのほうを意識していたい。
いつのころからか、そういう生き方がしたい、そのようにありたいと思ってきた。
大事故にあったり大病をしなくても、そういう心持になれないものだろうかと。
(できると思いたい。)
この小説には、そんな自分の理想の大事な部分が含み込まれている。

全体的なすばらしさとは別に、印象深いところが二か所あった。

ひとつめは、主人公がある朝の寝起きに、隣に住む親しくなったばかりの友人が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、その友人(でもとても大切に思っている)の、ささやかながらあたたかい、他愛のない昔話を聴いているシーン。

 なににつながっているのかわからない、なににもつながっていない可能性も大だった。
 それでも、彼の頭の中のハッピーが今この瞬間の私をハッピーにした。
 私は(急死した恋人の子供を)妊娠していないことがわかってしょげていたあのときでさえ、赤ちゃんがいる新婚さんを見ても一度もねたましいとは思わなかった。
 どうしてかって?それは私ではないし、私の赤ちゃんではないからだ。
 そういうのをねたましいと思うのは、親からもらったねたみぐせがある人だと思う。自分がどんな境遇にいても幸せや赤ん坊はただただ無条件にまわりに力をくれるものだ。親が私をねたみぐせのある人間に洗脳しなかったことを、弱っている期間は特にありがたく思った。
 人の心の中のいい景色は、なぜか他の人に大きな力を与えるのだ。

ほんとうは、普段から何気なく身の回りにあるいろんなものが、自分の生きる力、前に進んでいく力になるものだと思う。
それらが「ただただ無条件にくれる力」を、そのままに受け取れる自分でさえいられれば。
自分自身の「ねたみぐせ」のようなものに邪魔をされなければ。

逆に、人のいい話を聞いて自然と自分もうれしくなったり力が湧いたりするというのも、ひとつの「思いぐせ」かもしれない。

何にせよそういう「思いぐせ」みたいなものが「親からもらう」ものとして書かれていることに、うなってしまう。確かにそうなのかもしれない。すべてとは言わないまでも、多くがそうなのだろう。
でも、親からもらっても、そのくせを(大変ではあるけれど)手放したり変えていくこともきっとできると思う。
環境が自分に与える影響は大きい。でも自分がそうしたいと思うなら、人はそれを克服できる。そう思わなければ、やっていられない。
ほんとうにそうしたいと思えば、人は変わることができる。
自分のあり方も自分で選べる、と信じる。

印象深かったもうひとつの箇所は、登場人物である姉弟(たぶん30代〜40代 主人公と同年代)によって語られる、二人の母親のこと。
その人はすでに亡くなっているが、姉弟二人ともが、「とてもよい母だった」と公言してはばからない。
(ちなみにその弟のほうが、上に出てきた「友人」である。)
姉は母について次のように語っている。

「母だってもちろん人間だから、いらいらしたり、怒ったりしましたよ。下痢もしたし生理にもなったし、恋にもおぼれたし。でも、なんていうか、いつでもいろんなことにありがとうって思ってる人だったんです。いつでもなんとなく楽しそうで、どこにいっても窓から外を見て、いきてるってたのしいねえ、ありがとう、って思うよね、って本気で言ってて。それが、なにか幸運とかお金とかを得たくってむりに感謝してる感じではなくって、きわめて自然にありがとうを身にまとってる感じ?うまく言えないですけど、そういう人だったんですよ。」

物語の中の描写からも、その母親はその時どきをおおらかに楽しんで、ささやかな日々を大切に生活していたのだろう、風通しの良い女性だったように思われる。

自分が印象的だと感じた二点ともが、親から子へといつの間にか伝わった「姿勢」みたいなものの話だと、書いていて気づいた。
結果的に人に大きな影響をもたらすのは、面と向かって何を言われて育ったかということよりも、日々の何気ない繰り返しのなかで近くにいる人からすこしずつ渡ってくる、何か「横顔」や「姿勢」のようなものなのかもしれない。

あとがきの全文は、次のとおり。

 2011年3月11日の震災は、被災地の人たちのみならず、東京に住む私の人生もずいぶんと変えてしまいました。
 とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。
 どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。
「ふざけるな、こんな薄っぺらい、陽気な調子の小説になにがわかる」と思う人がたくさんいるだろうなあ、とも思いました。
 しかし、多くのいろんな人に納得してもらうようなでっかいことではなく、私は、私の小説でなぜか救われる、なぜか大丈夫になる、そういう数少ない読者に向けて、小さくしっかりと書くしかできない、そう思いました。
 もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。
 読んでくださって、ありがとうございます。ただ、ありがたく思います。

思いを、受け取りました!と勝手ながら言いたい。
こちらこそ、ありがとうございました。
読んでほんとうにほんとうに、よかったです。


阪神・淡路大震災のあとに書かれた村上春樹氏の『神の子どもたちはみな踊る』という短編集がある。考えてみると、数ある彼の著作の中でもとりわけこの本ばかりを、もう数えきれないくらい読み返している。
読むと静かに力が湧いてくるのを感じる。そうやって幾度も力をもらっている。
きっとこの本も、そういう願いを込めて書かれているからなんだろう。
この本にも、お礼を言いたい。

神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る

11月の営業時間と臨時休業日につきまして

11月も、月曜火曜は夕方からの営業です。

月・火 18:45〜22:00
水〜土 13:00〜22:00(最終受付21:00)
日・祝定休


22日(木)、24日(土)は臨時休業
と致します。

23日の祝日と合わせて、22日〜25日まで休みます。
よろしくお願いいたします。

栗とか芋とか、やたらおいしい季節ですね。
今年はどんな冬になるんだろう。

もっとゆっくり、「今」を

「かたつむりの速さ」に思いを巡らせているうちに、文化人類学者で環境運動団体「ナマケモノ倶楽部」世話人である、辻信一氏の『スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化』を思い出した。夢中で読んだのは何年前だろう。後で読みなおそうと、気になるところに貼っておいた付箋がヒラヒラしている。

まえがきは、「スロー」という言葉に彼が持たせている意味の説明から始まる。

 スロー・イズ・ビューティフル。Slow is beautiful.
 スローとは「遅い」、「ゆっくり」という意味です。このスローということばに、ぼくは現代用語の「エコロジカル(生態系によい)」とか、「サステナブル(永続性のある、持続可能な)」とかの意味をこめています。だから、読者は本書に繰り返し出てくるスローを、その都度「エコロジカル」や「サステナブル」と読み替えることもできるのですが、ただ、そうした新しくてまだこなれていないことばを使って自分たちの思いを掬い取ろうとするとき、どうしてもこぼれ落ちでしまうものがあるだろう。現代用語の器には入りきらないその部分を、もっと平凡で陳腐なことばの、より広い器で掬いとりたい。そんな思いで、ぼくはスローと言います。
 この一見凡庸なことばに、しかし、どれだけの詩的エネルギーが潜んでいるか。それを試そうと、このことばに、現代生活のさまざまな基本語彙を組み合わせてみます。スロー・エコノミー、スロー・テクノロジー、スロー・サイエンス、スロー・フード、スロー・デザイン、スロー・ボディ、スロー・ラブ・・・・・。こんな一種のことば遊びがぼくたちの創造力を解き放ってくれるかもしれません。現代社会に流布している「常識」とは異なる、もうひとつの経済、もうひとつの技術、もうひとつの科学、もうひとつの食生活、もうひとつの美的生活、もうひとつの身体、もうひとつの愛のあり方に向けて。
 しかし、「もうひとつの(オルタナティブ)」とは言っても、この本には何か目新しい理論のようなものがあるわけではありません。特に理論に詳しい人にとっては、むしろ古いことの蒸し返しと言う感じがするかもしれない。だが、その蒸し返しをこそぼくはしてみたいのです。

こんなまえがきにつづく第一章は、「もっとゆっくり、今を」。
アメリカの女性人口学者、ドネラ・メドウズ氏のエッセイ「もっとゆっくり(Not so fast)」の紹介に始まり、ミヒャエル・エンデの『モモ』、奈良県で自然農を営む川口由一氏の言葉をゆっくりとたどってゆく。

 川口によれば、いのちはおおもとのところでは無目的で、無方向だ。人類だけが自分を特殊な生き物だと思いなして、あたかも生きることに目的があり、方向があるかに思い描く。だが、さまざまな生命が生かし合い、声押し合ういのちのコミュニティでは、めぐりながら、しかしどこに向かうというのでもない。そこにただあって、今を生き、目的なく営み続けるのみだ。そこには終わりも始まりもない。過去、現在、未来の区別もない。
(・・・)
かつて人々は、目的をたて問題をたてながらも、生きること自体を何かさらに大きな目的のための単なる手段だと考えたり、生きるということがあたかもひとつの問題であるかに感じて思い悩んだりすることはほとんどなかった。
なのに我々の時代は、人々が必死に生きがいを求め、存在理由を探し、役割を模索し、それが思うようにうまくいかないときには生きる気力を失ってしまうという時代だ。では、以前はどこが違っていたのか。「生きる」のに理由などいらなかった。「生きる」ということに過不足はなかったのだ。そう感じられたのはなぜだろう。多分、いのちというものが自分にはおさまりきらない、自分を超えた、自分以上の存在だと感じていたからではないか。そこでは現代のわれわれが思うようにいのちは自分の所有物ではない。それは神秘であり、奇蹟。それは聖なるものと感受されていたのではないか。「今」はいのちの表現であり、「答え」。その「今」を、その「答え」を人間はひたすら生きてきた。
 「今」が未来と切り離されるまでは。そして単なる未来の手段だと見なされるようになるまでは。目的や目標のない人生なんて生きるに足りないなどと言われるようになるまでは。生物進化の歴史は最終的に人間をつくり出すための過程だ、などという神話が流行するまでは。動植物をはじめ自然はみな、人間が利用するために存在する「資源」だ、などと思い込むようになるまでは。

ここでは「今」=「現在」ではない。
未来とも過去とも切り離されていない「今」、すべてにつらなり、そのすべてでもある「今」。
辻氏は「スロー」という言葉を繰り返し響かせながら、ゆっくりとその「今」を味わうこと、「今を楽しむこと」へと着地する。

今は亡きドネラ・メドウズとともに「スロー・ダウン」と言おう。生態系を危機から救う人とは、まずその生態系を楽しむ人だろう。問題を解決できる人とは、答えを生きている人であるはずだ。森を楽しむのには時間がかかる。生きることは時間がかかる。食べて、排泄して、寝て、菜園の世話をして、散歩して、子どもたちと遊んで、セックスをして、眠って、友人と話をして、本を読んで、音楽を楽しんで、掃除をして、仕事をして、後かたづけをして、入浴をして。スロー・フード、スロー・ラブ、スロー・ライフ。近道をしなくてよかった、と思えるような人生を送りたい。

そうそう、身体には嵩(かさ)があり、生きることは時間がかかるよね。
というわけで、
今日もたっぷり時間をかけて、この嵩高い身体をもって、かたつむりの速さで「今を」生きるのだ。