かたつむりの速さで

読んでいた小説のなかに、「かたつむりの速さ」という表現が出てきて嬉しくなった。

「なるべくそっとしよう。そっと。かたつむりくらいの速さで。そうしたら、人生も長くなるから、長くいっしょにいられるし。」
 宮坂さんは言った。
 あまりにほのぼのして、私はただにっこりと笑った。携帯電話の絵文字くらいに小さなにっこりだった。

「かたつむりくらいの速さ」 っていいな。
「そうしたら、人生も長くなるから」 って、そうなのか?(笑)。

久しぶりに、よしもとばなな氏の小説を立て続けに2冊読んだ。これはそのうちの一冊、『ジュージュー』の中のセリフ。

ジュージュー

ジュージュー

小説自体、いや本自体を、久しぶりに読んだ気がする。

先日ふと、昔から好きな彼女の最近の作品を、その中でもなにか未読の作品を読みたいと思って図書館の蔵書検索をしてみたら、新しい本の何冊かはすぐに取り寄せられる状態だった。
私にとって「新しい」本は、世の中的にはもうすっかり新刊じゃなくなっているらしかった。
(人気作家の新刊は、50人とか100人とか貸出し待ちの人がいるのです。)
・・・ラッキー!(笑)

それでさっそく、よしもとばなな氏の小説を2冊、対談本を1冊、それから村上春樹氏のインタビュー本を1冊(これも誰も予約をしていなかったよ)、最寄りの図書館に取り寄せて借りた。

この『ジュージュー』も、もう一冊の小説も、とてもとてもすばらしかった。
ちなみに上記の「かたつむりの速さ」うんぬんという箇所は、とくにそのすばらしさを表しているというようなところでは全然ないのだけれど、なんだか好きで抜粋してしまった。

かたつむりは自分の中でけっこう重要なメタファーだと思う。
静かなところでしか、その完全な姿をあらわにしないかたつむり。
人の身体や心が「かたつむりのようでいられること」―平たく言えば
「安心して、無防備なありのままの姿で、ありのままの自分の速度で進めること」
がとても大切だと思っているからだ。
それが無理なくできるような自分であるか、
あるいはそれができるような場所を持っているか。

いろんなものがファストでクイックな世の中だけど(その恩恵にどっぷりつかっているけれど)
「マイペース」は大切。
それがスローであれ、ファストであれ。

そうか、「かたつむりの速さ」というのは、私にとっては単に「スロー」という意味ではなく、
「マイペース」ということなんだな。
そしてじつのところ「スロー」という言葉も、「ゆっくり」とういう意味だけにはとどまらない気がするのだけれど、それはまた別の本のお話。
今日のところは、ここまで。

そう、かたつむりの速さで。
今日も、かたつむりの速さで。

怒りにも、敬意をもって。

晴雨堂スタッフ2人は、どういうわけかとくにここ1年くらい公私にわたり、
「怒ることってありますか」とか
「そういうときってどうしてますか」とか
「怒り」に関する質問を受けることが多い。
(・・・いつもへらへらしてるからじゃないだろうか?)

自分たちの仕事において、感情と身体の症状との関連はとても重要なので、
感情についてはよく考える。

そのなかでも「怒り」については、特によく考えていると思う。
「和」を重んじる日本人にとって、怒りはもっとも処理や表現の難しい感情であるとも言われ、持ってしまった「怒り」の処理をどうしたらいいか、というのが悩み話の核心となっていることも多い。

でも・・・たしかに私たちは、あまり怒らないかもしれない。

とは言っても、怒りを抑え込んだり、がまんしているわけでもない。
怒らないというより、怒りがあまり長続きしないのかもしれない。
とらえようによっては、むしろ人並み以上に、怒りととことん付き合っていると言ってもいいかもしれない。
(まあ、比べようはないんだけどさ。)

「怒り」はたいがいの場合、怒り以外の感情がいくつか絡まりあった複合体で、
そのゴテゴテに絡まりあって複雑に見える何かを、こちらが恐れたり焦ったりせず静かに真正面からお迎えして、絡まりあってしまったものたちを、できる限り細やかに扱えば、たいがいそのひとつひとつはささやかで健気なものだったりする。ときには自分でも気づかなかったような純粋な感情や大切な事情が明らかになって、驚くことも多い。

ほんとうにあんまり怒らないので、例もうまく出せないのだけれど、
自分においてはたいがい、怒りの後ろには「悲しさ」とか「むなしさ」とか「寂しさ」とか、
思い出したくなかったことだとか、認めたくなかった感情だとかが潜んでいることが多い。
つまり、「怒り」とされているその固まりみたいなものにじっくりと付き合っていると、思いもしなかった自分の一面や抱いていた望み、小ささや弱さが明るみに出ることになる。
(一見それらを目の当たりにするのは苦しそうだから、「怒り」としてくくって知らないことにしておきたいのかもしれない。)

絡まりあううちに実質以上に大きくなって、アンタッチャブルな雰囲気をぷんぷん漂わせながらくすぶり続ける「怒り」とともにいるよりは、
自分の拙さや弱さやつらい思い出に、「そうだったんだねえ」と胸が痛くなりながらも付き合ってしまうほうが、自分としては楽みたいだ。
とにかく「怒り」氏の言い分をしっかり聴く。
まあそれが、人によっては面倒だったり、怖かったり困難だったりするんだろう。

いつのころからか、こうなってしまった。
たぶん試行錯誤や四苦八苦もしたんだろうけれど、今はもうすっかり慣れてしまった。
そうなってからは、ほとんどの怒りが「怒り」として定着する前に解体されてしまう。
(そのかわりに、「悲しみ続ける」とか「へこみ続ける」という事態はたまに発生する。とほほ。)


「腑分け」と「鎮魂」、と言うと唐突だろうか。

それは自分たちの仕事にもつながっているものだと思う。
身心の訴える症状を丁寧に腑分けして、そのひとつひとつの事情や成り立ちを受け止めて鎮めることに努めるのが、仕事みたいなものだ。
「敬意」がひとつのキーワードかもしれない、と書いていて思う。
目の前に現れたものがどんなものであれ、ただそれをそれとして、それ以上でもそれ以下でもなく、恐れもせず、疎ましがらず、まず敬意をもって静かにその前に立つ、ということがすべての基本かもしれない。
自分の感情であれ身体であれ、怒りであれ何であれ、ひとつとしてぞんざいに扱われてよいものなんて無いのだと思う。

怒りに限らず「感情」についての考え方は、スタッフ2人ともすこし変わっているのかもしれない。
これについては、また改めて書いてみようと思う。

ちなみにこの本は、腰痛をはじめとする多くの心身の症状は「抑圧された怒り」がその表現として選択した方法であるとする「TMS理論」について書かれたもの。
なかなかぐっときます!

腰痛は“怒り”である―痛みと心の不思議な関係

腰痛は“怒り”である―痛みと心の不思議な関係

誰もが「明日の家」に住んでいるのだ。

友人からもらったある本の冒頭に、子どもについて書かれた詩の引用がある。
印象深かったので、うろ覚えながら時折思い返していたのだけれど、
思い立ってちゃんと読み返してみたら、なかなか興味深かった。

調べてみたところ、それは厳密に言えば詩ではなく、カーリル・ジブランというレバノン出身の思想家の『The prophet(預言者)』という本の中のことばだった。
ある港町に流れ着きそこに住み着いた「預言者」が、ついに次の地へと発つ時を迎える。別れを惜しみ最後の教えを請おうとする人々の問いに、預言者はその智恵を尽くし、ひとつひとつ答えていく。
「子どもについてお話しください」と促された預言者の答えが、この引用された部分だったらしい。

Your children are not your children.
They are the sons and daughters of Life's longing for itself.
They come through you but not from you,
And though they are with you, yet they belong not to you.

You may give them your love but not your thoughts.
For they have their own thoughts.
You may house their bodies but not their souls,
For their souls dwell in the house of tomorrow, which you cannot visit, not even in your dreams.
You may strive to be like them, but seek not to make them like you.
For life goes not backward nor tarries with yesterday.

You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.
The archer sees the mark upon the path of the infinite, and he bends you with his might that his arrows may go swift and far.
Let your bending in the archer's hand be for gladness;
For even as he loves the arrow that flies, so he loves also the bow that is stable.

あなたの子どもはあなたの子どもではない。
子どもたちは、生命が生命そのもののために望んだ息子や娘である。
彼らはあなたを通してやって来るが、あなたから来るのではない。
あなたとともにいるが、あなたに属するのではない。
彼らの身体を家に住まわすことはできるが、
その魂を囲い込むことはできない。
子どもたちの魂は、あなたが夢の中ですら訪れることのできない、
明日の家というところを住まいとしているのだ。

彼らに愛を与えてもよいが、考えは与えてはならない。
考えは彼ら自身が持っている。
あなたが彼らのようになろうと努力するのはよいが、
彼らをあなたのようにさせようとしてはならない。
生命は決して後ろには進まず、昨日に留まりもしないからだ。

あなたは、あなたの子どもたちが生きた矢としてそこから放たれる、弓である。
矢が速く遠く飛ぶように、
天の射手は無限の道程の先にある的めがけてその弓を力いっぱい引き絞る。
射手の手の中で自らが強くたわめられることを、喜びとせよ。
彼が飛びゆく矢を愛するとき、彼はまた、その弓の動かぬことをも愛するのだから。

(自分なりに訳してみました。なのでところどころ微妙。あしからず。)

2年くらい前に初めて読んで以来、いつか子ども持つことがあったらこんな風に、
ちいさくとも独立した生命であるその人の存在や考えを、
敬意を持って尊重するような意識であり続けられたらいいなあ、とずっと思ってきた。

今もそれは変わらないのだけれど、今回改めて興味深く思ったのは、
このことばのなかに貫かれている「時間」や「未来」についてのとらえかただった。

「時は絶えることなく流れ続け、生命は常に前へと進み、決して留まることはない。」

とことばは言外に繰り返し告げている。
(ゆく河の流れは絶えずして・・・『方丈記』に通ずるようだ。)

この「預言者」のことばを信じるならば、
ほんとうは「自分の」ものとして捕まえたり留めたりすることができるものなんて、何もないんじゃないだろうか。

それと同時に、私たち自身も、生命自身に望まれて生まれてきた、
「誰かを通してやってきたけれど、誰かから来たのではない」
明日に住まう魂をもつ「子ども」でもあって、
誰からも何からも捕らえられたり、縛られたりすることはない。

矢を見送る私たちも、かつては生きた矢として放たれ、
また飛びゆく矢も、いずれは弓となって新たな矢を送り出す。

つれづれなるままにそんなことを考えて、
飛びゆくすべての矢が、どれも、遠く強く、しなやかに進んでゆくといいと、ただ思った。
そのための静かな良き弓に、喜んでなろうと思う。
かつて放たれた矢としては、強く引き絞られた弓を遠くに仰ぎ見ながら、行けるところまで行ってみよう。
(単純であるー。笑)

預言者」はほかにも「愛とは」「友情とは」「死とは」というような問いにも答えているもよう。
いずれゆっくり読んでみたい。
何人かの人が訳しているみたいだ。以下は一部で、まだまだある。
誰の訳で読もうかなー。


預言者

預言者

預言者のことば

預言者のことば

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

よく生きる智慧~完全新訳版『預言者』

預言者 The Prophet

預言者 The Prophet

おとだけがとおりぬけていく

星野源」という人の音楽が以前から気になっていて、図書館に一枚だけあった、
彼のバンド「サケロック」の『ホニャララ』というCDを、待ちに待ってやっと借りることができた。

ホニャララ

ホニャララ

これが素晴らしくて、まいってしまった。
全曲歌なしのインストゥルメンタル
どの曲もあまりに気持ち良くて、うなりながら聴く。

そしてこれを聴きながら、
これまた図書館で借りた、谷川俊太郎の詩集『みみをすます』を読む。

みみをすます (福音館の単行本)

みみをすます (福音館の単行本)

この本は以前にも書いた「ボクらの時代」の鼎談(谷川俊太郎×薮内道彦×工藤官九郎)
聴いてないものが聴こえるのに、確かに見たものが思い出せない。 - 今日も、晴雨堂で。
のなかで、薮内氏が紹介していたもの。
彼は大学浪人をしていたとき、一日中誰ともしゃべらない日には、
この本をひとりで声に出して読んでいたという。

帯には

このひらがな長詩は、和語だけでどれだけ深く広い世界を謳いあげることができるか、
著者があしかけ十年にわたって問い続けてきたことに対する、自らの完璧な回答です。

とある。

本を開くと、すべて大きなひらがな。(ときどきカタカナ)
なんともいえず引き込まれる、「音のよみもの」だった。

少し前からちらちらと見てはいたのだけれど、これは内容が/意味がどうのというような読み物じゃない。どこでもいつでも読める簡単なものだけれど、簡単でも、テレビとか観ながら読んじゃいけない。そう思って、時が来るのを待っていた。
今日は晴雨堂のソファーで『ホニャララ』をかけながら、ちゃんと読むことにする。

『みみをすます』はこんな調子↓

(・・・)

つきがかけ
つきがみち
ぼくは
あゆんだ
こいしにつまずき
ひいてゆくなみを
あしのうらにかんじながら
かぞえきれぬほどの
なまえを
ひとつまたひとつと
おぼえ
とうすみとんぼを
すきといい
むかでを
きらいといい
にじのいろをかぞえ
にじに
てのとどかぬことをおぼえ
わすれながら
おもいでをためこみ
みようみまねで
あすをうらない
おしえられるまま
めにみえぬものに
てをあわせた

(・・・)

『みみをすます』 「ぼく」 より一部抜粋

読んでいたら、まるですっかり、時間を忘れた。
音だけが通り抜けた。

・・・

よんでいたら
まるで
すっかり
じかんをわすれた
おとだけがとおりぬけた

そんなひもある
きょうも
せいうどうで

ゴールデンウィーク、ならびに5月の営業につきまして

ゴールデンウィークの営業につきまして≫

ゴールデンウィークの営業は、暦どおり、日曜・祝日定休とさせていただきます。

GWのお休み
4月29日(土)、30日(月)
5月3日(木)〜6日(日)

よろしくお願いいたします。

≪横山の長期休暇につきまして≫

また、まことに勝手ながら、5月下旬あたりから、
横山は産休に入る予定です。

その際、しばらくのあいだ、平日18:30〜、土曜日は13時〜、吉田の施術のみでの営業となる予定。
電話受付は日中から対応できるように調整したいと思っています。

詳細が決まり次第、こちらのブログでお知らせいたします。

ご愛顧いただいている皆様にはご迷惑をおかけしますが、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

パクチーその後

渋谷ティーヌンは、パクチー危機を乗り越えたようで、
パクチー復活しました♪」とうきうきした文字の貼り紙がしてあった。
よかったよかった。
なのでこちらもめでたくいつもの「センミーヘン」を高らかに
パクチー追加で!」とオーダーする。

今年は自分でパクチーを育てるか!
思い立ったのでネットでさっそく種を注文してみた。
パクチー三昧の夏になりますよう。

続・パクチーこばなし

先日富ヶ谷テラスに行って、誇り高き「パクチーサラダ(レギュラーサイズ)」をオーダーしたら、なんと(というか、やはり)ここでも「パクチーがしばらく入荷しないため・・・」オーダーできなかった。
どうやら本格的なパクチー恐慌が起こっているもよう。
ああ、残念。
がっかりしつつ、オーダー必須のもうひと品、「白レバーのムース」を食べてしのぐ。

パクチーについてはひとつ疑問がある。
パクチーって身体にいいんだろうか、というのがそれだ。
とくに香りの強い香草だから、作用があるとすれば、良くても悪くても相当強そうな気がする。

パクチーハウスを勧めてくれた友人は、
パクチーハウスに行くと、あらゆるものをたらふく食べて飲んでも、翌日ぜんぜんもたれたりしないし、すごく体調もいいんだよー。絶対パクチーの力だよ。身体にいいんだよ。」
と言っていた。
本当だろうか。本当ならうれしい。
(なにせ昨年末あんなに食べていたから。)

その人は本当に相当食べるし、お酒も相当飲む。
でも大学時代からもう数十回はタイに行っていて、タイが好きで好きでしかたない余り、ついにはタイ語まで話せるようになっちゃってうれしそうにしているような人なので、パクチーに対してもひいき目がありすぎて、彼女のパクチー礼賛はあてにならない気がする。

でも軽くネット検索してみたところ、パクチー、本当に身体によさそう。
ざっくり見たところでも健胃、整腸作用、殺菌・抗菌作用、抗酸化作用、とか。
たとえばミョウガみたいに、「食べすぎるとバカになる」的な情報が出てくるのではないかと恐れていたのだけれど、「食べすぎ注意」的記述は見当たらない。
近々、ちゃんと百科事典でも調べてみよう。