怒りにも、敬意をもって。

晴雨堂スタッフ2人は、どういうわけかとくにここ1年くらい公私にわたり、
「怒ることってありますか」とか
「そういうときってどうしてますか」とか
「怒り」に関する質問を受けることが多い。
(・・・いつもへらへらしてるからじゃないだろうか?)

自分たちの仕事において、感情と身体の症状との関連はとても重要なので、
感情についてはよく考える。

そのなかでも「怒り」については、特によく考えていると思う。
「和」を重んじる日本人にとって、怒りはもっとも処理や表現の難しい感情であるとも言われ、持ってしまった「怒り」の処理をどうしたらいいか、というのが悩み話の核心となっていることも多い。

でも・・・たしかに私たちは、あまり怒らないかもしれない。

とは言っても、怒りを抑え込んだり、がまんしているわけでもない。
怒らないというより、怒りがあまり長続きしないのかもしれない。
とらえようによっては、むしろ人並み以上に、怒りととことん付き合っていると言ってもいいかもしれない。
(まあ、比べようはないんだけどさ。)

「怒り」はたいがいの場合、怒り以外の感情がいくつか絡まりあった複合体で、
そのゴテゴテに絡まりあって複雑に見える何かを、こちらが恐れたり焦ったりせず静かに真正面からお迎えして、絡まりあってしまったものたちを、できる限り細やかに扱えば、たいがいそのひとつひとつはささやかで健気なものだったりする。ときには自分でも気づかなかったような純粋な感情や大切な事情が明らかになって、驚くことも多い。

ほんとうにあんまり怒らないので、例もうまく出せないのだけれど、
自分においてはたいがい、怒りの後ろには「悲しさ」とか「むなしさ」とか「寂しさ」とか、
思い出したくなかったことだとか、認めたくなかった感情だとかが潜んでいることが多い。
つまり、「怒り」とされているその固まりみたいなものにじっくりと付き合っていると、思いもしなかった自分の一面や抱いていた望み、小ささや弱さが明るみに出ることになる。
(一見それらを目の当たりにするのは苦しそうだから、「怒り」としてくくって知らないことにしておきたいのかもしれない。)

絡まりあううちに実質以上に大きくなって、アンタッチャブルな雰囲気をぷんぷん漂わせながらくすぶり続ける「怒り」とともにいるよりは、
自分の拙さや弱さやつらい思い出に、「そうだったんだねえ」と胸が痛くなりながらも付き合ってしまうほうが、自分としては楽みたいだ。
とにかく「怒り」氏の言い分をしっかり聴く。
まあそれが、人によっては面倒だったり、怖かったり困難だったりするんだろう。

いつのころからか、こうなってしまった。
たぶん試行錯誤や四苦八苦もしたんだろうけれど、今はもうすっかり慣れてしまった。
そうなってからは、ほとんどの怒りが「怒り」として定着する前に解体されてしまう。
(そのかわりに、「悲しみ続ける」とか「へこみ続ける」という事態はたまに発生する。とほほ。)


「腑分け」と「鎮魂」、と言うと唐突だろうか。

それは自分たちの仕事にもつながっているものだと思う。
身心の訴える症状を丁寧に腑分けして、そのひとつひとつの事情や成り立ちを受け止めて鎮めることに努めるのが、仕事みたいなものだ。
「敬意」がひとつのキーワードかもしれない、と書いていて思う。
目の前に現れたものがどんなものであれ、ただそれをそれとして、それ以上でもそれ以下でもなく、恐れもせず、疎ましがらず、まず敬意をもって静かにその前に立つ、ということがすべての基本かもしれない。
自分の感情であれ身体であれ、怒りであれ何であれ、ひとつとしてぞんざいに扱われてよいものなんて無いのだと思う。

怒りに限らず「感情」についての考え方は、スタッフ2人ともすこし変わっているのかもしれない。
これについては、また改めて書いてみようと思う。

ちなみにこの本は、腰痛をはじめとする多くの心身の症状は「抑圧された怒り」がその表現として選択した方法であるとする「TMS理論」について書かれたもの。
なかなかぐっときます!

腰痛は“怒り”である―痛みと心の不思議な関係

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